2018年05月25日
夢なき者に成功なし
火曜日は漁協エリアで剛腕使ってのチビニジ2尾の釣果でした(笑)
翌日はまたしても雨が降りましたが、今週末の釣りには影響なさそうです。
今週は常会の作業があるので土日休みです。短時間釣行なら出来そうなので夕まずめに賭けてみようと思います。
さて、前回は会津の什の掟の最後を締めくくる言葉を引用し、タイトルとしました。
今回のタイトルは勝てば官軍でお馴染みの長州藩の幕末における活動の(あえて活躍とは言わない)基となった人物の名言の最後を締めくくる言葉です。この方も長野県とちょっとだけ関係があるんですね。
彼が師事していた佐久間象山は松代藩士です。
時は幕末、会津には什の掟があり、長州には吉田松陰の教えがありました。
什の掟の方が歴史は古く保守的であり、吉田松陰の思想と教えは当時としては画期的というか過激なものだったように思います。
什の掟は子供達の間だけで、一つの社会を作り、その中で互いに社会性を学んでいくものだと僕は認識しています。
僕の認識と他の誰かとの間に認識のカイリがあっても、これは刑事事件にまでは発展しません(笑)
ちなみに現代の会津っ子達が唱和しているのは、什の掟そのものではなく、時代に則した什の誓いというものだとか。
一方の松陰先生(山口県民の多くは敬意を込めて先生と呼ぶらしい)は、師弟関係を築かず、教師と生徒という立場をとらず、互いに同じ立ち位置で共に考え学んでいく姿勢をとりました。
その思想は尊皇攘夷、果ては倒幕であり、行動する事の重要性を説くものでした。
生徒さん達は歴史の教科書に出てくる人物ばかりです。人は彼らを偉人と称賛しますが、僕は偉人より美人が好きです(爆)
何をもって美しいと感じるかについては、かなり世間一般とカイリしていると思われます(笑)
黒船来航以降、日本の国政は混乱し、国の方向性をめぐり意見の対立が出始めます。
幕末は厳しい身分制度も綻びを見せ始め、町人や百姓が武士になる事もありましたが、依然として国の根幹を動かしていたのは一部の身分の高い武士達でした。
その武士の世界にも身分制度は存在し、特に土佐藩などは上下関係が厳しかったようです。
親藩と外様藩にも経済格差や待遇の格差などがあったようですね。会津と長州とは根っこの部分から、お互いに仲良く手を取り合えない歴史的背景もあったんでしょうね、きっと。
会津は将軍家への絶対的忠誠を家訓とし体現していきます。一方、長州は松下村塾で学んだ若者を中心に尊皇攘夷、やがては尊皇倒幕へと進んでいくのでした。
と、ここで思うのは・・・
正史は常に時の権力者や勝者の視点から見たものだという事。
この政権交代劇の主役は士農工商の身分の内の士、つまり武士。しかも、全国にいた全ての武士が関わったわけではない。
残る農工商の身分の人達は当時どんなだったんでしょうね。
意外と武士同士の争いに迷惑してたとか、何が起きてるのか知らない人もいたかも(笑)
この時代、この国には生まれながらに道筋があって、自分の将来がある程度見えちゃうんだから自主性や主体性なんて育たなかったような気がします。教育だって、全ての子供達が受けられたわけじゃない。
しかも、鎖国してたから世界情勢なんて知るよしもありません。
それは、武士の世界にも言える事なんですが、黒船来航は変化が少なく目的意識も稀薄な日常に大きな衝撃と刺激を与えたんでしょうね。これは、当時の若者が攘夷に果敢にバイトしたのも分かるような気がするなあ(笑)
と同時に、歴史を大きく動かしたこの力、ちょっと怖い気もします。
そして、明治維新後は何が変わったのでしょう?
第二次世界大戦敗戦後は、アメリカ主導により2度と戦争を起こさない国となるよう徹底的な教育が行われました。
それによって日本人の主体性は失われたんでしょうか?
ああ、もう面倒くさいわ、主体性だの協調性だのと、そんなに問題あるんかい。臨機応変に使い分けるってのはどう?(笑)
戦後70年余、今の世の中そんなに悪くないと思いますが、そんなに良くもないのかな。
ちょっと均衡が崩れたら、右か左かどちらに行くか分からないのは何時の時代も一緒。
ならぬことはならぬものです
夢なき者に成功なし
僕にとっては、どちらの言葉に従って生きても、それは容易な事ではありませんね。
従うのも従わせるのも苦手だから(笑)

久林さん作
夢という字が大きく彫られています。
翌日はまたしても雨が降りましたが、今週末の釣りには影響なさそうです。
今週は常会の作業があるので土日休みです。短時間釣行なら出来そうなので夕まずめに賭けてみようと思います。
さて、前回は会津の什の掟の最後を締めくくる言葉を引用し、タイトルとしました。
今回のタイトルは勝てば官軍でお馴染みの長州藩の幕末における活動の(あえて活躍とは言わない)基となった人物の名言の最後を締めくくる言葉です。この方も長野県とちょっとだけ関係があるんですね。
彼が師事していた佐久間象山は松代藩士です。
時は幕末、会津には什の掟があり、長州には吉田松陰の教えがありました。
什の掟の方が歴史は古く保守的であり、吉田松陰の思想と教えは当時としては画期的というか過激なものだったように思います。
什の掟は子供達の間だけで、一つの社会を作り、その中で互いに社会性を学んでいくものだと僕は認識しています。
僕の認識と他の誰かとの間に認識のカイリがあっても、これは刑事事件にまでは発展しません(笑)
ちなみに現代の会津っ子達が唱和しているのは、什の掟そのものではなく、時代に則した什の誓いというものだとか。
一方の松陰先生(山口県民の多くは敬意を込めて先生と呼ぶらしい)は、師弟関係を築かず、教師と生徒という立場をとらず、互いに同じ立ち位置で共に考え学んでいく姿勢をとりました。
その思想は尊皇攘夷、果ては倒幕であり、行動する事の重要性を説くものでした。
生徒さん達は歴史の教科書に出てくる人物ばかりです。人は彼らを偉人と称賛しますが、僕は偉人より美人が好きです(爆)
何をもって美しいと感じるかについては、かなり世間一般とカイリしていると思われます(笑)
黒船来航以降、日本の国政は混乱し、国の方向性をめぐり意見の対立が出始めます。
幕末は厳しい身分制度も綻びを見せ始め、町人や百姓が武士になる事もありましたが、依然として国の根幹を動かしていたのは一部の身分の高い武士達でした。
その武士の世界にも身分制度は存在し、特に土佐藩などは上下関係が厳しかったようです。
親藩と外様藩にも経済格差や待遇の格差などがあったようですね。会津と長州とは根っこの部分から、お互いに仲良く手を取り合えない歴史的背景もあったんでしょうね、きっと。
会津は将軍家への絶対的忠誠を家訓とし体現していきます。一方、長州は松下村塾で学んだ若者を中心に尊皇攘夷、やがては尊皇倒幕へと進んでいくのでした。
と、ここで思うのは・・・
正史は常に時の権力者や勝者の視点から見たものだという事。
この政権交代劇の主役は士農工商の身分の内の士、つまり武士。しかも、全国にいた全ての武士が関わったわけではない。
残る農工商の身分の人達は当時どんなだったんでしょうね。
意外と武士同士の争いに迷惑してたとか、何が起きてるのか知らない人もいたかも(笑)
この時代、この国には生まれながらに道筋があって、自分の将来がある程度見えちゃうんだから自主性や主体性なんて育たなかったような気がします。教育だって、全ての子供達が受けられたわけじゃない。
しかも、鎖国してたから世界情勢なんて知るよしもありません。
それは、武士の世界にも言える事なんですが、黒船来航は変化が少なく目的意識も稀薄な日常に大きな衝撃と刺激を与えたんでしょうね。これは、当時の若者が攘夷に果敢にバイトしたのも分かるような気がするなあ(笑)
と同時に、歴史を大きく動かしたこの力、ちょっと怖い気もします。
そして、明治維新後は何が変わったのでしょう?
第二次世界大戦敗戦後は、アメリカ主導により2度と戦争を起こさない国となるよう徹底的な教育が行われました。
それによって日本人の主体性は失われたんでしょうか?
ああ、もう面倒くさいわ、主体性だの協調性だのと、そんなに問題あるんかい。臨機応変に使い分けるってのはどう?(笑)
戦後70年余、今の世の中そんなに悪くないと思いますが、そんなに良くもないのかな。
ちょっと均衡が崩れたら、右か左かどちらに行くか分からないのは何時の時代も一緒。
ならぬことはならぬものです
夢なき者に成功なし
僕にとっては、どちらの言葉に従って生きても、それは容易な事ではありませんね。
従うのも従わせるのも苦手だから(笑)

久林さん作
夢という字が大きく彫られています。
2018年05月19日
ならぬことはならぬものです
長野県にも所縁の深い徳川幕府三代将軍、徳川家光公の異母弟で福島県の会津藩主だった保科正之公が晩年に制定した会津家訓十五ヶ条。
名君と謳われた正之公の人柄は思慮深く、聡明で政治の手腕も抜群。忠義の人でもあり、家光公は大変信頼していたそうです。
家光公の死後は四代将軍の補佐役となり徳川家を支えました。
そんな正之公の教えは幕末まで引き継がれ、会津藩は官軍と旧幕府軍との戦いが幕府側劣勢の中、最後の最後まで恭順を貫き通しました。
現代的な合理性とは真逆の破滅への道を結果的に辿る事になります・・・
その他に会津には什の掟というものがあり、これは子供達が中心となって学んでいくものです。
『ならぬことはならぬものです』というのは、全ての掟の最後に書かれた言葉で、これらの事は絶対に守りなさい!という強調の意味合いがあるようです。
現在の小学一年生くらいの年齢から学び始め、掟を復唱したり音読するだけでなく、掟を破った者には体罰も与えたという事ですから、徹底的な教育ですね。
僕が当時の子供だったら、さしずめ市中引き回しの上、打ち首獄門の刑に処されるでしょう(笑)
現代的な価値観や視点から解釈しようとすると、賛否両論ありそうです。現代教育とは異なり、考える前に先ずは実践しなさいという感じです。
僕なら、まず『何故そうしなければならないのか?』が先に来ます。
戦後教育の賜物ですかね(笑)
教育は人と人とがお互いを尊重し会い調和のとれた社会を維持するために必要なものだと思いますが、ある意味世の中の都合。時代によって、価値観によって教育の中身も変化する。大人の都合、権力者の都合だったりする事もある。
社会人になっても会社の中にも教育ってありますし。
しかしながら、光化学スモッグなどの公害問題が深刻だった時代が、ちょうど会津の子供達が什の掟を学び始めるのと同じくらいの年頃だった僕も『ならぬことはならぬ』掟の必要性を今更ながら感じる事があります。
ブログは多くの人の目に触れ、事実を詳細に隠す事なく記事にすると自分のみならず、僕と関わった方などにも迷惑が及ぶ可能性があり、本当は伝えたいけど心の中にとどめておく事も多いです。
最近流行りの『ソンタク』勘定ってやつです(笑)
人間関係に於いて、我が身を守る事は相手を守る事にも繋がるのです。
僕ちゃん政治家じゃないけど(笑)
なので、全てを白日の元に曝す事はしませんが、時を経て今なら話せる事も中にはあります。
ちなみに私は教育者ではなく、しがない反面教師です(爆)
【自分の弱さとの戦い】

この写真は富山県小川で釣れた尺越えのヤマメです。
この川は、故人となられた細山長司さんがサクラマスを釣った記事を読んでから数年後に初めて訪れました。
その頃はサクラマス狙いの釣人で賑わってましたが、ある時組合員の方にお話を伺うと、『本当はサクラマス釣りはいけないんだけど、せっかく釣りに来たのだから』というような答えが返ってきて驚きました。
皆さんがおおっぴらに釣りしてるから、てっきり正式に認められているものだと思ってました。雑誌にも載ってたし。
僕は毎年通ってたわけではなく、数年毎に年1~2度の釣行だったので詳しい事情は分かりません。
更に時を経て久しぶりの小川では、組合員に声をかけられ『サクラマスは釣り禁止だよ』と言われて魚籠の中身を確認されました。郡上魚籠の中はヤマメでした。大体サクラマスが入る大きさじゃないし(笑)
地元の人の中には釣れたらこっそり持って帰りなと言う方も居ました。
そんな時、ヤマメ仕掛けで50有るか無いかの小ぶりなサクラマスが取れてしまいました。超デカいヤマメに感動し写真を撮ってリリースしましたが、写真を撮る行為自体が密漁と疑われる可能性がある事をこの時は夢中で考えませんでした。そして一瞬、地元の人の甘い誘惑の言葉に負けそうになった事を今でも思い出す時があります。
小川では、その後サクラマス釣りの券を買って河口付近をやってみましたが不発。
狙ってる時は釣れないのに、季節外れに上流のヤマメ狙いの時、不意に食ってきて結果は完敗でした。
その場所は昨年夏に訪れた時には禁漁区になっており、その代わりに河口から禁漁区の手前までがサクラマス釣りが可能な区間に広がっていました。
夏以降、最も釣れる区間が禁漁区になったポイントで、日釣券を買った時に確認しなかった僕も悪いのですが、知らずに禁漁区で釣りをしてしまいました。
幸いというか何というか、誰もが目に付く道路脇に派手な色の目立つ車を駐車し、堂々と長竿を振っていたのが逆に密漁者でないと判断されたらしく、地元の方が『ここは今年から禁漁区だよ。知らなかったんでしょ?』と声をかけて下さいました。
漁協の監視員に見つかっていたら大事になっていたかもしれません。
慌てて下流に移動して釣りをしましたが、渓相がだいぶ変わっていて魚とのコンタクトも無く残念でした。果たして、エリアを拡大した効果はあるのでしょうか?
小川のヤマメは綺麗で魅力的ですが、このように行く度に色々ありました。
小川より更に遠い黒部川にも良く通ったものですが、サクラマスの密漁の話の絶えない川でした。実際間違いなく密漁はありました。
当時、黒部川でサクラマスを釣ってきた人達が、あまりにおおっぴらで堂々としていたので話を聞いた後、黒部川ではサクラマス釣りが認められていると勘違いして出掛けていき、背中にサクラマス用の大型ネットを背負って愛本堰堤下から釣り開始。暫くして漁協の監視員がやってきて『そんな大きなネット持って何釣るの?』と言ってきた。
確か僕は正直に『サクラマスですが』と言ったと思います(笑)
あの頃は本当に無知で馬鹿でした。
いや、今もですが(^_^;)
監視員から黒部川はサクラマス釣りは禁止という事実を知らされ夢が消え去りました。
しかし、その後も富山県の河川を彷徨するのですが・・・
正式にサクラマス釣りが認められた今は、逆に密漁防止にもなって大変喜ばしい事だと思います。でも、完全に密漁が無くなるとは思えないですね。レジスタンスは何時の時代にも暗躍するものですから(笑)
黒部川を初めて訪れてその流れを見た時、掛けてみたいという色気はありましたが、同時に僕には狙っても絶対釣れないなと思いました。実際、愛本堰堤から河口まで、釣れたのはヤマメ、イワナ、アメマス、ウグイの四種のみ。物理的にも密漁は出来なかったわけです(笑)
放流量が半端ないので、とにかくヤマメは沢山釣れました。
いつか、あの激流で大型サクラマスを本流竿で釣ってみたいですね。いえ、もう一度あの流れを前に竿を出すだけでも満足です。外道でヤマメなら釣る自信があります(笑)
規則を守り、マナーを守り、正々堂々と魚との勝負が出来るって気持ちの良いものですからね。
規則や法律は、それを守る事によって自分だけでなく他者を守る事にも繋がります。
『人が規則を破っているから自分も』とか、『人に見つからなければ大丈夫。黙っていれば大丈夫』というのは僕が理想とする『なりたい自分、こうありたい自分』とは違います。
人と関わらなければ、釣りと関わらなければこんな面倒な事は起きないわけですが、残念ながら釣りが好きなので仕方ないですね。
北陸富山県での釣り旅は、失敗ありハプニングありの旅でしたが、釣りの技術よりも、もっと大事な事を学ばせていただいたような気がします。
そして、これからも学び続けます。なるべく危なっかしい失敗は少なめで心の迷子にならないように気をつけながら(笑)
ならぬことはならぬものです。
名君と謳われた正之公の人柄は思慮深く、聡明で政治の手腕も抜群。忠義の人でもあり、家光公は大変信頼していたそうです。
家光公の死後は四代将軍の補佐役となり徳川家を支えました。
そんな正之公の教えは幕末まで引き継がれ、会津藩は官軍と旧幕府軍との戦いが幕府側劣勢の中、最後の最後まで恭順を貫き通しました。
現代的な合理性とは真逆の破滅への道を結果的に辿る事になります・・・
その他に会津には什の掟というものがあり、これは子供達が中心となって学んでいくものです。
『ならぬことはならぬものです』というのは、全ての掟の最後に書かれた言葉で、これらの事は絶対に守りなさい!という強調の意味合いがあるようです。
現在の小学一年生くらいの年齢から学び始め、掟を復唱したり音読するだけでなく、掟を破った者には体罰も与えたという事ですから、徹底的な教育ですね。
僕が当時の子供だったら、さしずめ市中引き回しの上、打ち首獄門の刑に処されるでしょう(笑)
現代的な価値観や視点から解釈しようとすると、賛否両論ありそうです。現代教育とは異なり、考える前に先ずは実践しなさいという感じです。
僕なら、まず『何故そうしなければならないのか?』が先に来ます。
戦後教育の賜物ですかね(笑)
教育は人と人とがお互いを尊重し会い調和のとれた社会を維持するために必要なものだと思いますが、ある意味世の中の都合。時代によって、価値観によって教育の中身も変化する。大人の都合、権力者の都合だったりする事もある。
社会人になっても会社の中にも教育ってありますし。
しかしながら、光化学スモッグなどの公害問題が深刻だった時代が、ちょうど会津の子供達が什の掟を学び始めるのと同じくらいの年頃だった僕も『ならぬことはならぬ』掟の必要性を今更ながら感じる事があります。
ブログは多くの人の目に触れ、事実を詳細に隠す事なく記事にすると自分のみならず、僕と関わった方などにも迷惑が及ぶ可能性があり、本当は伝えたいけど心の中にとどめておく事も多いです。
最近流行りの『ソンタク』勘定ってやつです(笑)
人間関係に於いて、我が身を守る事は相手を守る事にも繋がるのです。
僕ちゃん政治家じゃないけど(笑)
なので、全てを白日の元に曝す事はしませんが、時を経て今なら話せる事も中にはあります。
ちなみに私は教育者ではなく、しがない反面教師です(爆)
【自分の弱さとの戦い】

この写真は富山県小川で釣れた尺越えのヤマメです。
この川は、故人となられた細山長司さんがサクラマスを釣った記事を読んでから数年後に初めて訪れました。
その頃はサクラマス狙いの釣人で賑わってましたが、ある時組合員の方にお話を伺うと、『本当はサクラマス釣りはいけないんだけど、せっかく釣りに来たのだから』というような答えが返ってきて驚きました。
皆さんがおおっぴらに釣りしてるから、てっきり正式に認められているものだと思ってました。雑誌にも載ってたし。
僕は毎年通ってたわけではなく、数年毎に年1~2度の釣行だったので詳しい事情は分かりません。
更に時を経て久しぶりの小川では、組合員に声をかけられ『サクラマスは釣り禁止だよ』と言われて魚籠の中身を確認されました。郡上魚籠の中はヤマメでした。大体サクラマスが入る大きさじゃないし(笑)
地元の人の中には釣れたらこっそり持って帰りなと言う方も居ました。
そんな時、ヤマメ仕掛けで50有るか無いかの小ぶりなサクラマスが取れてしまいました。超デカいヤマメに感動し写真を撮ってリリースしましたが、写真を撮る行為自体が密漁と疑われる可能性がある事をこの時は夢中で考えませんでした。そして一瞬、地元の人の甘い誘惑の言葉に負けそうになった事を今でも思い出す時があります。
小川では、その後サクラマス釣りの券を買って河口付近をやってみましたが不発。
狙ってる時は釣れないのに、季節外れに上流のヤマメ狙いの時、不意に食ってきて結果は完敗でした。
その場所は昨年夏に訪れた時には禁漁区になっており、その代わりに河口から禁漁区の手前までがサクラマス釣りが可能な区間に広がっていました。
夏以降、最も釣れる区間が禁漁区になったポイントで、日釣券を買った時に確認しなかった僕も悪いのですが、知らずに禁漁区で釣りをしてしまいました。
幸いというか何というか、誰もが目に付く道路脇に派手な色の目立つ車を駐車し、堂々と長竿を振っていたのが逆に密漁者でないと判断されたらしく、地元の方が『ここは今年から禁漁区だよ。知らなかったんでしょ?』と声をかけて下さいました。
漁協の監視員に見つかっていたら大事になっていたかもしれません。
慌てて下流に移動して釣りをしましたが、渓相がだいぶ変わっていて魚とのコンタクトも無く残念でした。果たして、エリアを拡大した効果はあるのでしょうか?
小川のヤマメは綺麗で魅力的ですが、このように行く度に色々ありました。
小川より更に遠い黒部川にも良く通ったものですが、サクラマスの密漁の話の絶えない川でした。実際間違いなく密漁はありました。
当時、黒部川でサクラマスを釣ってきた人達が、あまりにおおっぴらで堂々としていたので話を聞いた後、黒部川ではサクラマス釣りが認められていると勘違いして出掛けていき、背中にサクラマス用の大型ネットを背負って愛本堰堤下から釣り開始。暫くして漁協の監視員がやってきて『そんな大きなネット持って何釣るの?』と言ってきた。
確か僕は正直に『サクラマスですが』と言ったと思います(笑)
あの頃は本当に無知で馬鹿でした。
いや、今もですが(^_^;)
監視員から黒部川はサクラマス釣りは禁止という事実を知らされ夢が消え去りました。
しかし、その後も富山県の河川を彷徨するのですが・・・
正式にサクラマス釣りが認められた今は、逆に密漁防止にもなって大変喜ばしい事だと思います。でも、完全に密漁が無くなるとは思えないですね。レジスタンスは何時の時代にも暗躍するものですから(笑)
黒部川を初めて訪れてその流れを見た時、掛けてみたいという色気はありましたが、同時に僕には狙っても絶対釣れないなと思いました。実際、愛本堰堤から河口まで、釣れたのはヤマメ、イワナ、アメマス、ウグイの四種のみ。物理的にも密漁は出来なかったわけです(笑)
放流量が半端ないので、とにかくヤマメは沢山釣れました。
いつか、あの激流で大型サクラマスを本流竿で釣ってみたいですね。いえ、もう一度あの流れを前に竿を出すだけでも満足です。外道でヤマメなら釣る自信があります(笑)
規則を守り、マナーを守り、正々堂々と魚との勝負が出来るって気持ちの良いものですからね。
規則や法律は、それを守る事によって自分だけでなく他者を守る事にも繋がります。
『人が規則を破っているから自分も』とか、『人に見つからなければ大丈夫。黙っていれば大丈夫』というのは僕が理想とする『なりたい自分、こうありたい自分』とは違います。
人と関わらなければ、釣りと関わらなければこんな面倒な事は起きないわけですが、残念ながら釣りが好きなので仕方ないですね。
北陸富山県での釣り旅は、失敗ありハプニングありの旅でしたが、釣りの技術よりも、もっと大事な事を学ばせていただいたような気がします。
そして、これからも学び続けます。なるべく危なっかしい失敗は少なめで心の迷子にならないように気をつけながら(笑)
ならぬことはならぬものです。
2018年04月30日
あなたには見えますか?

一昨年の夏のある日、鬼釣会会長てっちゃんと遡上ヤマメ狙いで某川へ釣りに行った時の事。
推定40は軽く越えていたヤマメ(多分)を掛け損ね、その後二人でポイントを求めて釣り下り、絶好の場所を見つけて粘るも、かろうじて釣れた8寸程のヤマメは何と肛門にハリがガッチリ掛かっていた(爆)
どうりで良く引いた。お尻が痛かったのかな(笑)
釣果は会長の圧勝。オレって、こんなにヤマメ釣り下手だったっけ?
と、少々凹む(笑)
その後、ライトスペックMH90-95は2度も二番が折れ┐('~`;)┌
相性悪いのかと心配したが、その後この竿で尺ヤマメを2本出しているから、そうでもないようだ。
さて、話を元へ戻して・・・
大ヤマメを掛け損ね、この日の釣りを諦めて帰ろうとした頃に突然の電話。
それは、福島県のおばさんが亡くなったという訃報だった。
お通夜とお葬式に出席する為、翌日朝8時に母を車に乗せ出発。
ちなみに当時の車は10年以上乗り続け走行距離17万キロ走破のコンパクトカー。
助手席の母は、このポンコツが長距離走行に耐えられるのか不安だったようですが(笑)
生涯で初めて足を踏み入れた東北の玄関口、福島県。
この日は台風が接近。関東から東北へ向かって北上する予報だったので、最も遠回りになるが、新潟県経由のルートを選択した。
写真は猪苗代湖で撮影したもの。
残念ながら、火葬場の駐車場で撮影した放射線量計はデータから消えていた。
少し小高い山の上に位置していたせいか他の場所に比べて線量が高めだった。
葬儀場への移動の際にバスの車窓から道路脇をふと見たら除染作業中の立て札があった。
福島第一原発から約100キロ程離れた場所だが、数値として目に見える放射線があった。
福島県以外では放射線量は視覚化されていない。それはかえって不安かもしれない。
僕達が直接口に入れる食料品についても、最近はあまり騒がれなくなった。
昨年の夏は一周忌で福島県を再訪した。
用足しで立ち寄った(笑)公園に見覚えのある形をしたものが設置されていたので近くまで行ってみると線量計だった。
この時は長野県の大町市より少し高いくらいのレベルだった。
福島県内の河川も、ようやく釣りが再開できるようになった。
帰りに奥会津あたりの川で釣りをしてみたかったが、今回は母と姉が同行したので群馬県伊香保温泉に二人を置いて、利根川で賢いヤマメさん達に遊ばれてきた(爆
原発から漏れた甚大な量の放射性物質は内陸部より海に向かった方が多いらしいが、それでも事故当時は福島県以外でもかなり汚染はあったはずだ。
更に今でも漏れっぱなしの垂れ流し状態。
人類史上最悪の事態のはずなのに、僕も含めて何故こうも落ち着いていられるのだろう。
他の原発の今後の行方や、今後来るかも知れない巨大地震など未来は絶望と恐怖に満ち溢れているはずなのに、僕は夢を求めて竿を買った(笑)
不思議の国かもしれない日本。
遠い昔、遠い国ロシアのチェルノブイリ原発が事故を起こした時、牛乳は飲むなとかパスタは食べるなとか色々言ってたな~誰かが・・・
現在はネットなどに情報が溢れかえっているが、何が真実で何が嘘かは自分で判断しなければならない。
また、本来は公正中立の立場でなければならない筈のマスコミが平気で正義を振りかざす。
と言いつつも出勤前、結構朝のワイドショーとか観てます。それが金さんの桜吹雪や黄門様の印籠と同じ「お約束」なのだと思えば怒ったり呆れる必要はなくなるから(笑)
本当、ワンパターンって偉大かも(笑
ただ一つだけ、こんな目の悪い僕にもはっきりと見えるのは、何処に住んでいる人も、元気な人も、そうでない人も、みんな命を燃やして生きているという事。
僕はこの世に、人に、そして自分に絶望する為に生まれてきたわけではない。
釣りをする為に生まれてきたのだ(爆)
これだけ見えていれば何とかなるさ。
僕の新しい相棒、シマノスーパーゲームスペシャルHHH86-92GOWAN
本流釣りの未来を切り開く新調子だそうです。
この竿を携えて、この先の自分の未来と、この国をも切り開く事が果たして出来るでしょうか?(大風呂敷)
ちなみにこの竿、高いけどマレーシア製です(笑

追記
万が一、魔がさしたりしてこの記事にコメントされる場合、あまり真面目過ぎたり過激過ぎる内容は困ります(笑)